『トゥルーマン・ショー』 放送10909日目

引用元

世界中に生活のほぼ全てをリアルタイムで中継されているトゥルーマン。
人々も建物も全て撮影用の役者とセット、彼自身はそれを知らない。
これは彼を映すTV番組、作られた世界の中で彼は真実を探し始める。

基礎情報

原題:The Truman Show
1998年 アメリカ パラマウント 103分
監督:ピーター・ウィアー
主演:ジム・キャリー、エド・ハリス
字幕翻訳:戸田奈津子
キャッチコピー:ご覧の番組は、彼だけ知りません。

総合レビュー(ネタバレなし)

この映画の最大の魅力こそトゥルーマンという人物の生き様で、人生そのものであるが故に様々なテーマを内包している。
それでいてコメディ風味の面白さもあるので全体の雰囲気が明るいのも良い。
また、舞台設定上映画内でも役者として登場する俳優たちがいるので、彼らの演技や心情にも注目していくとより一層楽しむことができる。

私の人生ベスト級の映画で、もしもまだみたことが無い人が居るとしたら何においてもみてほしい一本。飲み物とスナック類を用意して次の金曜の夜にでもどうだろうか。

この映画を初めてみたのは幼い時分だったので字幕翻訳好きと言いながら主に吹替でみていて、それを芯にして書いているがどちらでも楽しめるはずなので映画をみる時は好きな方を選んでほしい。
吹替でみる際の注意点として、ジム・キャリーの吹替は堀内賢雄なので山寺宏一で固まってしまっている場合は字幕の方が無難かもしれない。

ちなみにジム・キャリーがコメディ以外で初めて主演したものらしい。

この先ネタバレを含みます

トゥルーマン・ショーをみて

この映画はドラマか、SFか、ホラーか、人によって違う角度でみられているようで、私はコメディ的なドラマ映画だと頭から信じ切っていたので初めてホラーという見方に触れたとき、そういう見方があるということがまさにホラーだと思った。
SFであるという意見は映画内の大掛かりすぎるドーム状のセットを見せられている分抵抗は少なかったし、フィリップ・K・ディックの小説からアイディアを得ているという話もあったので素直に受け入れられた。しかしホラーはどうか。

ホラーであるという意見の根拠になっているのはトゥルーマン・ショーという映画の一番の仕掛けであるTV番組という点だ。トゥルーマンという男の生活をTV番組として放映するために人間関係や世界そのものを捏造している。
創造主と架空の世界、架空の人物、自分の全てをエンタテインメントとして無自覚に監視している視聴者たち。
誰にでも一度くらいはこの世界は本物か、自分とは何か、神とは何か、信じられるものは、信じるとはどういうことか、そういったことを考えたことがあるかもしれない。

こういったあらゆる疑心暗鬼をトゥルーマン・ショーは体現していて、この映画をみるという行為によって観客を無自覚な視聴者の一人として仕立て上げ否応無く存在しないはずの世界、その疑いの渦に取り込んでしまう。
これが恐怖でなくて何であろう、これはホラー映画である、ということだ。

正直なところ一理あるように思う。私自身この手の話は好きで、ホラーであるという根拠の考えに覚えがないわけではない。
しかし、ここではきっぱりと切り捨ててあくまでコメディを含むドラマとして取り扱い、文章を書いていくことにする。
なぜなら仮にホラーとしてのテーマが実際に組み込まれていたとしても、間違いなくメインとしては扱われていないし、何よりもトゥルーマン自身がそういった恐怖に飲み込まれておらず、それこそ水平線の彼方を越えて希望に満ちた人物であるからだ。

映画の力点

トゥルーマン・ショーの魅力を語るとき、非常に多くの角度がある。
この映画はコメディ的なドラマだという風に書いたが、総括的である。

コメディはスパイスであり、ドラマを構成する内訳は親子愛、友情、恋愛、成長と旅立ち、など多岐にわたる。
重要なのはこういった様々な要素で構成されていても決して中途半端に右へ左へ振り子した結果ではないということだ。
これら全ては必要不可欠的に展開され、それはとりもなおさずトゥルーマン・ショーがトゥルーマンの人生そのものを描くものであるからに他ならない。

この映画の一番の見所こそトゥルーマンの生き方であり、その中でも最大の魅力は偽りでかたどられた世界にあっても彼が本物の人生を歩んでいるという事実にある。
何から何まで作り物の中、彼ただ一人が”トゥルーマン”なのだ。

トゥルーマンの世界は俯瞰される

この映画は映画内のTV番組であるトゥルーマン・ショーの映像がそのまま映画になっており、それは24時間休むことなくあらゆる箇所に設置されたカメラで撮影され彼の生活のほぼ全てを網羅している。

この映画における我々観客の立場は完全な傍観者で、このTV番組の性質的にも時折映される番組視聴者達と同意になる。
そういった視点の最も重要な部分は、我々観客がトゥルーマンに直接感情移入してはいけないということだ。

我々はあくまでも視聴者でありトゥルーマンの視点で世界を見ては駄目で、必ずTV番組をみている人々の一員にならねばならず、番組の登場人物としてのトゥルーマンに感情移入しなくてはならない。
観客がこの視点を自然に持つための工夫として世界観の説明が早い段階で入り、またTV番組のCMのようなものもある。

映画内の実際の番組視聴者を映しつつ丁寧にCMを打ち、カメラの存在も周知されるため、視点の誘導が行なわれているにも関わらず我々観客には違和感が残らない。
このためトゥルーマン自身を含め、他の映画の様に神の視点的にどこで何が映るとしても無意識に受け入れることができる。

コメディとしても

さらにこの設定と工夫は映画映像上の根幹を成すだけでなく、映画を盛り上げるためのスパイスとしてコミカルな演出を可能にする。
トゥルーマンの生活の中で映されるスポンサーの広告商品は妻のメリルを除いてさりげなく紹介されているのでどこがスポンサー用の映像なのかに注目しても良いし、トゥルーマンの幼少時代を紹介するパートなどは丸ごと笑わせてきている。

その他純粋に彼のキャラクターとしてのコメディもちりばめられている。
「会えないときのために」から始まるセリフは彼の人柄や映画そのものを端的に表してくれているし、会社内で雑誌のページを破る際のくしゃみを装って音を誤魔化すシーンなどは共感と共に笑いを誘う。
雨が彼の頭上にのみ降り注ぐ手法も日本では馴染み深いものだ。

また、コメディ要素なら番組を視聴している人物たちも忘れることができない。
酒場でスポーツ観戦のように大勢で見ている人々もいれば、警備の仕事の合間二人で見ている人もいる。彼らのリアクションにも注目しているとより楽しめることだろう。
その中でもお風呂に入りながら視聴しているおじさんを見逃してはいけない。
浴槽にテレビと小さなテーブルを設置して視聴していて、そのリアクションがことごとく面白い。
よくよく考えればこのおじさんは一体どれだけの間お風呂で過ごすつもりなのか、睡魔と脱水症状には気をつけてほしい。

トゥルーマンの人間関係

この映画において最も重要なのは他でもないトゥルーマンを取り巻く人間関係だ。
言うまでもなく番組側の用意した俳優たちであるので彼らの役割や性格は設定上のものだがその多くは本物として昇華される。

トゥルーマンの親友のマーロンなどは、幼馴染であり付き合いが非常に長い。
俳優である以上彼も缶ビールをカメラに宣伝していたり、制作者側の指示を受けて立ち回っているが、トゥルーマンの心を深く知ることのできる数少ない人物の一人であり、彼の言葉からは指示以上の感情を窺うことができる。

その点ではマーロンを演じた実際の俳優であるノア・エメリッヒの力も大きい。
また、トゥルーマンが最も信頼を寄せる人物で、見方によってはトゥルーマンに世界への不信感と戦う勇気を与えた人物とも言える。

同じだけトゥルーマンの心に深く入り込んでいる人物としてトゥルーマンの心の恋人シルヴィアの存在がある。

シルヴィアは映画内での彼女の本名で役名はローレン。彼女は当初エキストラとして登場するがお互いに恋に落ちた末トゥルーマンに世界の秘密を暴露しようとしてしまう、この(制作者側から見て)分別の無い行動により無理やり降板させられる。

しかしその後も彼女は番組の一視聴者としてトゥルーマンを見守り続け、トゥルーマンも雑誌から彼女の顔に似ているパーツの女性を見つけては切り貼りを繰り返し思い出の再現を試みている。
さらに彼女に会うという目的のために自身のトラウマである海(水)を越えようともする。それ自体は失敗するが、つまりトゥルーマンにとって彼女の存在は非常に大きなモチベーションなのだ。

結果的に世界について疑問の種を蒔いたのも彼女であるし、彼女の心がトゥルーマンの根底にあったために世界に挑戦することができたと言っても過言ではないと思う。

決して忘れてはならないのはトゥルーマン・ショーにおける親子関係で、全体で見たときほぼ一方的ではあるものの非常に深い愛情を見ることができる。
それは間違いなくトゥルーマンのトラウマにもなっている役割上の父親ではなくて、エド・ハリス演じるクリストフの方だ。

トゥルーマン・ショーというTV番組を始めた人物であり、同時にトゥルーマンを見い出し成長の全てを見てきた実質的な父親でもある。
トゥルーマンからは最後になるまで認知されることはないが、映画には頻繁に登場しており観客からは彼の心を窺うことができる。

彼の行動は概ねトゥルーマンを守るためのもので、トラウマを与え島から出られないようにするのも番組上の都合とともに庇護の手段の一貫でもある。
終盤のセリフにもあるがそれ故にこの世界には安全を初めとしたあらゆるものが揃っているのだ。

規模で見れば過保護が過ぎるがやっていることは多感な子供を心配する親と同じだ。
そしてそうであるからこそトゥルーマンが世界への疑念を深め真実を探し出す過程がそのまま精神の成長として映し出され、視聴者の感情移入を保ったままラストシーンに繋がっていく。

最後こそ

ラストにクリストフとトゥルーマンの対話がある。
ある種創造神であるクリストフと言葉を交わすこの場面は本作の最も大きな見せ場でもある。

ここに至る以前、クリストフはシルヴィアと「このドームの外は病んだ世界」「トゥルーマンにその気があればいつでも外にでられた、彼はこの世界に満足している」という会話をしていて、ここでもそういった外と中の世界についての話がでてくる。

これこそクリストフの考えの根底、子育ての方針であり愛情の形でもある。
血の繋がりがあろうとなかろうとこのシーンにおいて二人は完璧に親子だ。
そして一時の沈黙の後トゥルーマンも彼に応える。

クリストフにとっては望まないものであったがそこでトゥルーマンの取る行動こそ映画の集大成であり、紛れも無い自我の確立、親離れの瞬間でもある。
子は必ず親の元を離れて行く、親にとってはひどく寂しいものかも知れないが、悲しむ必要などはない。

何故なら子の自立は必然的に生物としての証明で、本来多くの希望に満ちたものであるはずだからだ。
それに、このシーンでもトゥルーマン自身がはっきりと宣言している。
「会えないときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみ」
たとえ彼がどこへ行きどこに居ようとも、その心はいつでも想う人のそばにある。

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